時定数 #8

 蒸し暑い、寝苦しい夜には、東京の実家の近くの神社の、こぢんまりした縁日の夢を見る。並んだ屋台の赤い灯りが空間を照らす様子に、いかにも光学的に不自然な、不思議な滲みを見つけた時、僕はそれが夢であると知る。夢の灯りは影を作らない。明るいところは明るくて、暗いところは暗いだけだ。紺と深緑のあいだの色をした夜空の真ん中で、どこか行きたそうにしているひとちぎれの雲さえ、この縁日ぜんたいが発するぼんやりした灯に照らし出されて、灰色に輝いている。焼きそばの鉄板から上がった煙は、雲にあこがれて、夜空に向かってもうもうと立ち昇っていく。あの屋台へ歩いて行こう。
 溢れたゴミ箱。足の裏から、ひんやりと湿った土のやわらかさが直接伝わってくるが、僕は両足にスニーカーを履いている。石灯籠。秘密ありげに微笑む少年や少女の顔は、汗で脂っこくなって、四方から投げられた光をまぶしく照り返している。手水舎。焼け焦げた食べ物のにおい、集まった人々の汗や、吐き出された息のにおい、土と雑草のにおい、これから降る雨のにおい、そういったにおい同士は互いに混ざり合い、その上さらに、境内を浮遊するまばゆい光の粒の群れとも見境なく結合し、縁日のそこはかとなく淫蕩な、生温かい雰囲気に拍車をかけている。透明なプラスチックのパック。僕はぶよぶよとして弾力のない、老いさらばえた男の手の甲の静脈のような焼きそばを食べる。
 舞台の上では、マジック・ショーがすでに始まっている。彼が右手のステッキを、手首のスナップを嫌味なほど利かせて一振り、二振りすれば、星屑のようなきらめきとともに、中型のコッカー・スパニエル犬がどこからともなく現れる。僕たち家族が昔飼っていたペギーに、涙が出るほどそっくりな。でも、すぐにペギーではないとわかる。彼女はバカで、あんな風に「お座り」をして澄ましていられるお利口犬ではなかったから。ともかく重要なのは、あのマジシャンがギラギラ輝く右手のステッキに注意を引きつけながら、反対の手で尻のポケットをごそごそやって、次のトリックの準備を周到に進めていることだ。何かが不必要なほど目立っているとき、その裏に見られたくない別の何かがある。縁日の灯りは何もかもを煌々と照らし出すかのようでいて、実のところ、本堂の西側の板壁の、消えないペンキで描かれた反国家的な落書きから人々の注意を逸らしている。僕に六五〇円で焼きそばを売った中年女が昼間に何をやっていたか、それを僕が知ることはない。それに、恋人繋ぎで喧騒を横切り、すれ違う者にこれから彼らの行うセックスを想像させて恥じることのないカップルでさえも、ささやかな寂しさを、あるいは些細でなく辛い事柄を、各々の心の隔離された暗がりの中に押し込んでいる。
 社務所の軒の下の闇に目を凝らせば、忘却の彼方に追いやってきたはずの後悔や罪が、形をとってその片鱗をぬっと覗かせる予感がする。それはたとえば、股間を蹴って泣かせた友達、踏んづけてかち割ったゲーム機の画面、丸いすべすべした石で潰したクワガタ虫、学校に来なくなった女の子についての、いじらしい思い出と連関しているかもしれない。あるいは、自殺した同級生や、死んでもいないのにもう会わないと決めた人たち(つまり、僕にとって死んだも同然)の顔の像そのものが、霧のように重たい暗闇の中で、数少ない光子が寄り集まって、点描画のように浮かび上がる、そんな悪い予感がする。僕の記憶にひそむ魑魅魍魎どもが、闇の向こう側から僕を見張っている。
 僕は空恐ろしさを感じながら、ここが神社であることを思い出していた。それで初めて、神なんていうきな臭い存在へ祈りを捧げる気になった。僕は祈ったことがなかったし、神の存在を信じたことはなかった。しかし、今や僕の世界が成り立つために、世界のバランスが崩壊しないために、どうしても神のような装置が必要とされていた。つまりこうだ——今までに忘却したことが何かの拍子に一度に思い出されてしまうような精神的災難から、我を守り給え! 永遠の、引き続きの忘却を約束し給え! 僕の神さま、僕の宗教! 僕はこう祈って音のしない鈴を鳴らした。

 どうやら、僕たちは電気を付けっ放しにして寝ていたようだった。洗面所の水を掬って啜り、吐き出す。ねばっこく白い糸を引いた唾液が、漏斗状のボウルの表面を、少しの間たゆたう。僕はビジネスホテルの水の、鉄くさい風味が鼻から抜けるのを感じながら、それが排水口に吸い込まれるのを見届ける。それからバスローブをほどいて、小便をする。
 いまだに彼女はシングルベッドの上で、壁の方を向いて眠っている。布団の上から彼女の腰を揺すると、目を覚まして、上半身だけこちらに向ける。「コーヒー飲みますか」朦朧としたまま、ゆっくり頷く。窓を開ければ、それこそ湯を沸かすほどの熱い空気が部屋に入ってくる。たまらず彼女は布団を蹴り上げて、その裸身を蛍光灯の明るみの下に晒す。足場工事の大工たちがハンマーで根がらみをカンカンと叩く音が、街中に響いている。街はもう、活動を始めている。

時定数 #7

 サイエンティフィックとはある種の性癖のあらわれであって、覆い隠された事柄をなんでもかんでもディス-カヴァーせずには置けないたちのことだ。そんなことをふと思ったのは、自分のペニスを握りながらインターネットをサーフィンしていて、ある盗撮動画を見ているときだった。 "Airbnb" というタイトルのその動画は、柱や梁がなく天井の高い欧風なリビングルームを定点から映したもので、画面に日本人観光客と思しき四、五人の女が愉快そうに入ってくると、緑色のやわらかそうなカーディガンやぴっちりした縞模様の下着といったものをすべて脱いで、白い胸を揺らしながらビキニに着替え、大きなガラス窓の外にある私設プールに次々と飛び込むのだった。
 言うまでもなく、僕は義憤に駆られたりなんかしなかった。ペニスを握っている間に道徳心を取り戻す男はいないからだ。弁解、弁解、弁解——それはペニスを飼う者の宿命だ。それは勃起への弁解であり、射精への弁解であり、あるいは違法ポルノを閲覧することへの弁解である。男性の論理的にものを考える傾向などというのは長所でもなんでもなく、性衝動に対して繰り返し自己弁護の理屈をこねくるおかげで染みつく手癖にすぎない。砂漠の地平からのぼろうとしている太陽が圧倒的な灼熱とまばゆさをもってやがて藍色の空を真っ白に染めてしまうように、性徴とともにじらじらと芽生えた性的欲求は、今や僕の心の南の空のもっとも高いところで、タングステンをも溶かす熱を放ち続けるのである。
 数秒間の暗転のあと、色とりどりの水着の女たちがプールから上がってくる。ある一人はさっさとビキニを脱ぎ捨てて、明るいフローリングの敷かれたリビングルームを裸のままうろつき、ペットボトルから水を飲んでいる。また一人は、何も恥じらう理由など無いかのような態度を見せながらも、バスタオルを身体に巻きつけて、ごく慎重に水着を脱ぎつつある。
 三番目に上がってきたいちばん髪の短い女は、こちらに尻を向けたまま前屈みになってパンツを脱ぎ、それを右足の指で拾いながら、聞き取れない声でなにか言っている。ボリュームを上げると、女の声だけでなく、ノイズもいたずらに大きくなる。イコライザで低音域と高音域を抑えれば、ノイズはいくらかマシになる。そのうち、画面外のだれかがドライヤーを使い始めたので、いちばん髪の短い女の声は全くかき消されてしまう。僕は二十秒巻き戻して、もっと音量を上げて、耳を澄ます。そうして僕は、いちばん髪の短い女は、喋っていたのではなく、スピッツの「空も飛べるはず」を歌っていたのだと知る。
 ドライヤーのゴーという音がやるせないほど響いている。

時定数 #6

 安藤莉子が死んだ経緯を、僕は少しずつだが詳しく知ることになった。彼女は大学院の修士課程を卒業した後、ファクトリー・オートメーション機器を扱うメーカーに就職した。極端な激務かつ高収入で有名なその企業にしばらく勤め、鬱病の父親が抱える二百万程度の借金(複数のカードローンの利子が長い年月をかけて嵩んだものだった)と自らの奨学金を繰上げて返済した。経済的な身辺整理を終えて、彼女はいくつかの無計画な旅行を含む性的に奔放な期間を過ごした。彼女は近いうちに死ぬことをインスタグラムで「親しい友達」に報せたうえで、酒を飲んだりセックスしたりする相手を募集し、実際に十数名とセックスした。彼女は三十一歳で死んだ。
 "Why not...?(なぜ〜〜しないの?)" ——それは大学院生の彼女が好んで使ったフレーズであり、ちょうど "A" というアルファベットと赤色との関係のように、僕にとって、安藤莉子の肖像のイメージと "why not...?" との間には密接な結びつきがあった。「なぜE. coliの培養条件を検討しないの?」「なぜもっと高いイオン濃度における顕微鏡観察を試さないの?」僕の研究に批判的なレビューを与えるときの、彼女の弾むような英語が思い出された。僕は彼女の死には全く同情しないし、彼女がそれを求めていないことは明らかだ。むしろ、記憶の中の彼女は僕に目を合わせてこう詰問する。なぜ貴方は人生を終えるタイミングを自分で決めないの? なぜもっと快楽を追求しないの? なぜもっと合理的に生きないの?
 この考え方自体は珍しいものではなく、既に「運命決定権」として著名なテクノロジー系の実業家によって広められ、破滅的な性向をもつ若者を中心に支持を集めていた。支持者が運営するポータルサイトには、クリーム色の背景に緑色の文字で次のような標語が並べられている。

あなたの人生、あなたの決定。
偶然ではなく、意志によって終わらせよう。
八十歳で死ぬのも、三十歳で死ぬのも、死ぬのは一緒。

彼らにアンチ・ナタリストたちのような切実さが見られないどころか、むしろ楽天的な印象すら受けるのは、生の本質は苦痛であるという前提を共有しないからだろう。ポータルサイトには関連するWikipedia記事へのリンク、主要な思想家・書籍の紹介とともに、支持者向けの出会い系掲示板へのリンクも掲載されている。それを開くと、ページの中央に口を開けて笑う大きな黄色い絵文字が表示される。安藤莉子は、確かによく笑う人物だった。

時定数 #5

 僕はめくれかかった下唇の皮を舌と前歯を使って剥がすのに苦心するふりをした。僕がこの老婆の息子の死に対してよくある車の暴走事故だということ以外に何も感じなかったように、老婆の側も莉子の死をよくある若者の自殺だとしか思わないだろうと考えると、それを話すことへの躊躇が僕の心に細く夥しい根を張り、吸い上げた栄養で生長した真っ青な蔦は頸動脈を巻き込みよじ登り喉元へと達してきた。しかし、彼女の死をただの若者の自殺としてこの老婆に簡単に話して済ますことができない理由はなんだろう。たとえ莉子が死ななかったとしても彼女と僕がこの先の人生で会うことはおそらく無かっただろうに、それでもなお彼女の死が僕にとって何らかの重みを持つとしたら、そのわけは一体なんだろう。突風が地獄の底の針の山のように密集した高層ビルへの衝突と迂回を繰り返した挙句、怒り狂ったように僕と老婆の間を裂いて過ぎた。硬い一片の唇の皮をようやく剥がしおおせて呑みこんだとき、一人の女性が早足で老婆に近づいた。
「ここか、やっぱり」長い茶髪の女性は、独り言とも老婆への発話ともつかぬ声の大きさで言った。女性は僕に身体を向け、「すみません、母がご迷惑を」と謝罪し、いかにも所作に自覚的な人が行いそうな、慇懃な辞儀をした。僕は何のことだかわからず、呆気にとられた。青いダウンジャケットの老婆に何か言おうとする素振りはなく、ゼンマイの回り切ったカラフルな合成樹脂のオモチャのようになって、ただ目を伏せている。その鈍い視線の先で、手の甲ほどの大きさの雨蛙が、てらてらした体表の緑色をタイルの灰色の上で鮮やかに際立たせていた。つるんとした風船ガムのような鳴き袋を小刻みに震わせるその様子から、次の瞬間にでもこの蛙が一鳴きするのではないかと思われた。そうでなければ、赤子のような前肢と対照的に隆々と発達した後肢に編み込まれた筋繊維の協奏的な収縮による一跳びが、次のまばたきの最中にでも行われるかもしれないと思われた。しかし、蛙はそうした全ての可能な行為の実行を留保し、僕の視界の中央で茄子のような卑猥な輝きをただ放ち続けた。
「冬眠できなかったのかねぇ」老婆が口を切った。
「はっ?」
「ほら、蛙。あまがえる。今ごろに出てきて」
「ああ」
「踏まれちゃいそうですね、ここだと」僕は右手の手袋を外して、しゃがみこみ、慎重に蛙をつまみ上げた。「僕、あっちの垣根のとこまで持ってくんで。おばあさんも元気で」
 僕は踵を返した。背中に注がれる視線と指先に伝わる脈動を感じながら、広場の端の垣根の方へ早足で歩いた。僕は学部でカエルの解剖をしたことを思い出していた。生きたウシガエルをトリカインの水槽に入れて気絶させる。外科用のメスで皮膚を裂き、その下の筋肉を裂く。すると、心臓、肺、胃、肝臓、小腸などの内臓が詰まった、人間の中味をそのまま縮小したかのような内部形態が露わになる……。垣根の足下の土壌に雨蛙を放すと、蛙は三度すばやい跳躍をして、草叢のなかへ消えた。それから僕は振り返って再び広場を見渡したが、そこにはもう誰もいなかった。

時定数 #4

 相変わらず、そこはドブのようなにおいのする、赤と灰色の長方形のタイルが敷き詰められた、楕円形の広場だった。椅子とテーブルが消え去った代わりに、真っ白いアフリカ象の胴体のような公衆トイレが楕円の中心に設置されたことを除けば、ほとんどあの日のままのように見えた。僕は僕たちが写真を撮った地点に近づき、地べたにあぐらをかいて座った。風のない空に、継ぎ目のない油粘土のような雲が、へらで伸ばしたように見渡す限り広がっている。長い孫の手のようなもので真上の雲に触れたなら、小さな揺れが過密な雲の間を伝わって、東京の空全体が波打つかと思われた。
「今日も寒いですねぇ」と僕に声をかける者がいた。振り向くと、そこに青いダウンジャケットを着た、背の低い老婆がいた。
「そうですねえ、とても」僕は座ったまま答えた。
「ちょうどこのあたりで、事故があったのを知っておられますか?」
「いえ、わからないです」僕はニット帽からはみ出す赤茶色の前髪に交じった、一本の白髪を盗み見た。
「ここは以前、椅子や机なんか並んでいて、食べ物を出すお店もあって、食事ができる場所だったそうですよ。それがねぇ、あすこに緑のポールがふたつ並んでますでしょう、ちょうどあのあたりから車が歩道に乗り上げまして、この広場までまっすぐ、ブレーキもなしに突っ込んで。」彼女はその光景を今まさに眼前にしているかのように、存在しない車の軌道を指で差し、目で追いながら話した。「ドンとぶつかったんですよ、ここの机に!それで、ちょうどここのあたりに、わたしの息子が掛けてましてね、それでね、ずうっと向こうまで引きずられて、亡くなったんです。」
「それは、お気の毒で……」僕は彼女の顔を見ずに言った。
「もう、ずいぶん前のことですけれど。何年になるだろう。」彼女は天を仰ぐ仕草をした。どこか遠くの高速道路で、あるバイク乗りが無遠慮な加速を始めた。僕はそのエンジンから発せられる断続的な爆発音に、ここで起きた事故の有り様を見た。
「実は、ここで食事をしたことがあるんです。」僕は立ち上がって言った。「これがその時の写真ですがね、僕がまだ学生の頃ですよ。このあたりに座って、こうやって腕を伸ばして撮ったんじゃなかったかなあ。後ろに、桜の木が見えるでしょう。あの、変な形の枝だ、ほら、写真にも写ってますよ。」
「本当だ、確かにこんな椅子でしたねぇ。この黒い椅子がひしゃげて、潰れた蜘蛛の脚のようになったんです。」それが冗談かどうか、僕にはわからなかった。「いい写真ですねぇ。あなたも、他の方々も、楽しそうで。お友達で?」
「ええ、同級生です。」僕は右手で自分の額を強く引っ掻いた。
「ところで、あなたはどうして、ここに座っておられたんですか。」
 明らかにこの質問は、社交上のエチケットのような、様式的性格を帯びていた。片方が一頻り喋り終えたあと、「では、あなたの方は?」と問い返すような平々凡々とした構造の会話のなかで、ある人間の死、それも肉親の凄惨な事故死が語られたことに、僕は一種のおかしみを感じないでもなかった。
 とにかく僕は、老婆にこう聞かれたような気がしたのだ。「あなたもだれかを亡くされたから、ここに来たのですか?」

時定数 #3

 健人と別れて、僕と莉子は緑色の蛇のような各駅停車に乗り込んだ。いい具合に酔っていた。やけに揺れる車両の上でゆらゆらしながら、眼球をころころ動かして流れ去る窓外の景色を眺めた。ダウンジャケットに覆われた僕の肉体は、絶えず熱を放出している。暑い。踏切の手前で不意にスピードが緩んで、トカゲの眼窩がんかのような奇妙な模様が彫られた灰色のブロック塀に目が留まった。その模様が原因か、あるいは遮断機の鳴らす音がいつもより甲高く聞こえたからか知らないが、その瞬間に、昨晩のポルノ動画の複数の断片がまざまざと思い出された。呻き声とともに、白くて丸々した尻の筋肉が、ぴくり、ぴくり、痙攣けいれんした。家に着いたら自慰行為でもしてひと眠りしよう。僕はマフラーをほどくと、座席に座った莉子を流し目に見た。
 彼女は石鹸のような白く四角い塊を鼻に近づけて、そのにおいを嗅いだり、ポーチから取り出した錠剤を唾液で呑み込んだりしていた。急に項垂 うなだれたかと思うと、おもむろに顔を上げてじっと前を見つめた。
「大丈夫」僕が聞くと、彼女は頷いた。結局、電車の中での僕と彼女のコミュニケーションはそれだけだった。
 僕たちは十七時二十分に別れた。

*

 僕は時間が一次元、すなわち直線だと思わない。とくに過去の認識について、たとえば一年前よりも十年前の方が必ずしも遠いと思わない。過去の実体を記憶だと考えるならば、ある出来事を鮮やかに思い出している間、それがいつ生起したかに拘らず、その特定の過去は現在に限りなく接近していると言ってよい。一方、たとえついさっき起きた出来事であっても、完全に忘却されたならばそれを無限遠点と見做みなすことができる。僕は時間を二次元平面上の不連続な曲線のように思ってきた。
 物、ことばや香りには、我々に過去の出来事を思い起こさせる機能がある。その時、曲線の形状が変化し、ある過去の点の群れが現在へ接近する。人はただ直線的な時間のうえを生きるのではなく、外部からの刺激によって過去を様々な形状の曲線へと絶えず変えられながら生きる。
 とりわけ、写真には強い想起の機能がある。いま僕は、僕と莉子と健人が映った写真を見ていた。懐かしい彼らの顔、その表情、若さの残る服装、テーブルの上には、もう存在しないブランドのチューハイがある。この日のこと、それから、大学院での様々な出来事、それらが群れとなって僕の現在へと詰め寄せた。思わず涙が出そうになった。なぜ人は、懐かしさを感じると泣きたくなるのだろう?

時定数 #2

 その写真の撮影を境にして、僕たちのテーブルは少しずつ白け始めた。自撮りという行為そのものが、自分自身の時空間的な状態を対象化する点でとてもシニカルだ。乾いたシャッター音(それはキヤノン AE-1の録音だ)は、僕たちがいつ、どこにいて、誰と、何をしているのか、思い出させた。それは亢進こうしんしつつあった酩酊感に水を差さずにいなかった。
 すでに日が傾き始めていた。靴ほどの大きさのもみじが、冷たい風に引きずられて、放浪者のように僕の背後を過ぎた。僕は上着を羽織り、チューハイの残りを呷った。健人はタコスの残りを頬張っている。咀嚼のリズムにあわせて、こめかみの筋肉がぼこり、ぼこりと隆起するのを横目で見る。すりつぶされた蛋白質の流動体が、いま、彼の細い喉を下りていく。その喉から、どうしても声が出なくなることがあった。声帯を震わすことが叶わなくなって、語頭の歯擦音しさつおんが連発される。す、す、す、と音を発する彼の表情がみるみる硬くなる。やがて彼は完全に黙る。僕はほとんど満席の会場の後ろの方にいて、空調のルーバーがスイングする音と、彼の心臓の音を聞く。講義室の内側の空間ぜんぶが一つの固体のようだ。「にしても、良かったね、上手く行ったなら……」しばしの沈黙のあと、僕は呟いた。健人は小学生の群れに視線を放ったまま、「うん」とだけ言った。彼もまた、何か別のことを考えていたらしい。相変わらず子供たちは思うさま騒いでいて、口を開けて笑ったり、大声で怒ったりしている。
 莉子は少し前からテーブルに突っ伏したままだ。「安藤さん、起きてる。そろそろ行きますか」僕は言った。「安藤さん」もう一度声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。頬と目元が赤い。前髪がすこし乱れている。パーカーの袖が、少し濡れているように見えた。彼女はなにも言わずにポケットティッシュを取り出して、勢いよく洟をかんだ。「飲みすぎだよ」健人は控えめに笑う。一人で歩けないほどではないらしかった。
 僕と莉子は駅に向かって歩き出した。まだ午後三時だというのに、西日が前方から照り付けて、僕たちの背後へ長く濃い影を伸ばした。健人が莉子の赤いコートを持って、後から追いついた。「あぁ、ごめん、ありがとう」彼女は笑顔をつくった。僕と彼女は、これから同じ電車に乗ることになるはずだ。そうして二人になった時、彼女がテーブルで泣いていたのかどうかを、僕は聞くかもしれないと思った。でも、どうして泣いていたのかを聞くことは多分ないだろう。泣き上戸などと言って適当にごまかされれば、僕は納得したふりをして話題を変えるだろう。そして、彼女が泣いていた本当のわけを知ることは、多分ないだろう。僕たちは、そのくらいの間柄だからだ。