健人と別れて、僕と莉子は緑色の蛇のような各駅停車に乗り込んだ。いい具合に酔っていた。やけに揺れる車両の上でゆらゆらしながら、眼球をころころ動かして流れ去る窓外の景色を眺めた。ダウンジャケットに覆われた僕の肉体は、絶えず熱を放出している。暑い。踏切の手前で不意にスピードが緩んで、トカゲの眼窩のような奇妙な模様が彫られた灰色のブロック塀に目が留まった。その模様が原因か、あるいは遮断機の鳴らす音がいつもより甲高く聞こえたからか知らないが、その瞬間に、昨晩のポルノ動画の複数の断片がまざまざと思い出された。呻き声とともに、白くて丸々した尻の筋肉が、ぴくり、ぴくり、痙攣した。家に着いたら自慰行為でもしてひと眠りしよう。僕はマフラーをほどくと、座席に座った莉子を流し目に見た。
彼女は石鹸のような白く四角い塊を鼻に近づけて、そのにおいを嗅いだり、ポーチから取り出した錠剤を唾液で呑み込んだりしていた。急に項垂れたかと思うと、おもむろに顔を上げてじっと前を見つめた。
「大丈夫」僕が聞くと、彼女は頷いた。結局、電車の中での僕と彼女のコミュニケーションはそれだけだった。
僕たちは十七時二十分に別れた。
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僕は時間が一次元、すなわち直線だと思わない。とくに過去の認識について、たとえば一年前よりも十年前の方が必ずしも遠いと思わない。過去の実体を記憶だと考えるならば、ある出来事を鮮やかに思い出している間、それがいつ生起したかに拘らず、その特定の過去は現在に限りなく接近していると言ってよい。一方、たとえついさっき起きた出来事であっても、完全に忘却されたならばそれを無限遠点と見做すことができる。僕は時間を二次元平面上の不連続な曲線のように思ってきた。
物、ことばや香りには、我々に過去の出来事を思い起こさせる機能がある。その時、曲線の形状が変化し、ある過去の点の群れが現在へ接近する。人はただ直線的な時間のうえを生きるのではなく、外部からの刺激によって過去を様々な形状の曲線へと絶えず変えられながら生きる。
とりわけ、写真には強い想起の機能がある。いま僕は、僕と莉子と健人が映った写真を見ていた。懐かしい彼らの顔、その表情、若さの残る服装、テーブルの上には、もう存在しないブランドのチューハイがある。この日のこと、それから、大学院での様々な出来事、それらが群れとなって僕の現在へと詰め寄せた。思わず涙が出そうになった。なぜ人は、懐かしさを感じると泣きたくなるのだろう?