興味なし

歳をとるにつれて興味のないものに接する機会が減ってしまうという事実に、もうお気づきだろうか。今の自分と小学生の頃の自分を比べると、日ごろ学校へ行き、授業を受けるという点こそ共通しているものの、活動の種類や授業のカバーする分野は比較にならないほど狭くなっている。

小学校の時間割を思い出してみよう。国語・算数・理科・社会の他にも、体育・図工・音楽・家庭科・書写(習字)……と、地域差はあるのだろうが、豊富な副教科を興味のあるなしにかかわらずやらされていたことを覚えているだろうか。そして、大学受験が近づくにつれて学ぶ分野は徐々に減っていき、驚くべきことに、今の自分が大学でやらされるのは上に挙げた九つの教科のうち、たった二つ(算数と理科)だけである。

大学は家庭科の実習型講義を行い味噌汁を作らせるべきだ、とか、図工を開講して粘土をこねさせるべきだ、という高等教育批判を行う訳ではない。しかし、ひとつの事実は、僕はもう料理をしようと自分から思わないと料理をできないし、水彩画を描こうと一念発起して休日に画材屋を訪ねて絵筆と絵の具とイーゼルを買わないと水彩画を描けないということである。歌を歌いたくないと思えば、いくつかの機会を回避して、一生歌わないこともできてしまう。

そう考えると、なにかを強制されることは実は貴重だったのだと思わされる。子供の頃は強制されたり、禁止されたりすることによる積極的な不自由に支配されていたが、現在の僕たちは、いわば消極的な不自由、目に見えない不自由のなかにいるのではないか。自分の行動を主体的に選択できるということは、裏を返せば、自分のしうる行動が自分の意志の及ぶ範疇に限定されるということである。

やりたくないことをやらされる機会が減ることの何が悪いのか、と思われるかもしれない。ヘタな絵はもう描きたくないし、身体を動かすのも疲れるだけだし、数式なんか死ぬまで見なくて結構、と思うかもしれないが、その一方で、絵画やスポーツ、数学の魅力に触れ、文字通り人生を捧げる人が数多く存在する。僕としては、それほどの大きな魅力を潜在的に持つこれらのものに対して、人生の序の口で絶縁を決め込んでしまうのはあまり時期尚早であると思う。

とはいえ、やはりわざわざ筆と絵の具を買いに行くのは容易なことではない。優しい強盗に今日のうちに画材屋へ行けと脅されでもしないと行かないと思う。たまに強制されることを欲することがある。