美術館に行く

どういうわけか今月は美術館に4回行った。夏休みは展覧会シーズンなのかどうか知らないが、東京都美術館マティス展を始めとして展覧会がいろいろ開かれていた。

マティス展」「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」「ピカソのセラミック」に行って、とりわけ良かったのは「ABSTRACTION」だった。展示室が3フロア分と広く展示の量が多い割に質の点からしても良い作品が多く、抽象絵画の起源と展開を紹介するという趣旨に恥じるところのない展示だったような気がする。カンディンスキーの絵画が印象に残った。

次に良かったのは「ピカソのセラミック」で、これにはおととい行ったのだが、ピカソの夥しい活動のうち皿や陶芸品などの造形芸術に注目した展示だった。館内の映像で、ピカソがろくろから持ち上げた陶器をくにゃくにゃ曲げてものの30秒ほどで鳥の形にする姿を見られて面白かった。人が少なく、静かなのもよかった。

どういう風の吹き回しで4回も美術館に行くことになったのか? 理由の一つには、夏休みの外に出る理由のなさがある。本を読むのは楽しく、ギターの練習(6月から続いている!)も楽しい。夏休みに入ってしばらくはこの暑さのなか外に出なくてよいことをありがたく思ったが、人間というこの度し難い生き物は、外に出ない日が続いたら続いたでそろそろ外に出たいと思い始める。

外に出る理由として美術館よりポピュラーなものに映画の鑑賞があるが、僕は大きなスクリーンと大きな音があまり得意でないし、他の人と一緒に観るのも得意でない。ネトフリ等の動画配信サービスが台頭する一方で映画館が来館者を獲得する理由は大スクリーンと音響システムが生み出す体験性の強さにあるのだと思うが、僕はたとえばシンエヴァでATフィールドが壊されそうになるシーンで画面が強く点滅するのが怖かったし、家で鼻をほじりながら見る方が楽しいと思う。

ところで、ホラー映画というのはある意味ではその性質を逆手に取った娯楽だと思っていて、人はスクリーンの前で自由に動くことを制限されているから、嫌になったら一時停止・電源オフできる家のテレビとは訳が違う。『ミニミニポッケの大きな庭で』という7分間のアニメーション映画を見たことがあるが、あれは映画館という事実上の軟禁室でのみ成立する純粋な恐怖体験だった。

美術館は基本的に大きな音を鳴らさないし、人もそんなに多くない(マティス展は例外的に混雑していた)。学生の入館料はたいてい1000円もせず、『ABSTRACT』に至っては無料だった。立地が微妙に駅から遠い場所だったりするので散歩になるのも、まあこの暑さでなければよい点だと思う。9月も4回くらい行くかもしれない。

国家資格、安心の魔法

僕のような実際に仕事をできないかもしれない、急に会社行くのやめたとか言い出しかねない人間でも、国家資格があればなんとかなる気がしている。国家資格があれば仕事をサボっても許されると思っているのではない。たとえば弁護士になったとして、裁判をサボったらダメだと思う。一介のシステムエンジニアが仕事をサボるのとは比にならないくらい致命的にダメだ。しかし、サボっても弁護士なので仕事は見つかるんじゃないかと思う。要するに、サボってサラリーマンをクビになったらただの無職だが、裁判をサボって弁護士事務所をクビになっても無職(ただし弁護士資格あり)なので、仮に無職になった場合のことを考えると資格があった方が有利な気がする。

もっとも、裁判をサボったら弁護士資格を剥奪されるどころか、なにかの罪に問われるのかもしれない。その場合、僕は無職(前科あり)になってしまう。そうなっては困る。サボったあとのリカバリー効果を求めて国家資格をとったのに、国家資格をもつ者であるがゆえに重い責任を負わなければならないということになっては本末転倒ではないか。

将来への不安から、もろもろの国家資格について調べていた。弁理士という職には理系出身者が多く、年収もいいらしい。検索のサジェストで「弁理士 やめとけ」とか出てくるが、やめとけ系サジェストは大体の職業名につくので気にしない。「公認会計士 やめとけ」もあれば、「社労士 意味ない」もある。たぶん僕のような人が言っているのだし、そんなのに耳を傾ける必要はないのだ。

だいたい、僕は理という字が好きだ。だから高校では理学部数学科を志望していて、工学部には行きたくなかった。それがどういう因果か生命理工学部に来てしまったのだが。理屈なら、たとえそれが屁理屈でも物心ついた時から好きだった。理学療法士になりたいと思ったこともあったかもしれない。

しかし、弁理士は職務の内容が性に合わなそうなのでやめた。主に知的財産法を扱い、特許の申請や権利関係の紛争を解決したりするということで、つまり資本主義社会の市場競争の健全性を維持する職なのだろうと思った。僕は資本主義が嫌いだった。

一方で、社会保険労務士(社労士)というのは社会保険や労働関連の法律を扱い、労働者を保護する職だという。僕は、日本人が真面目だとは言わないが、文化として他責よりか自責の傾向が強いと思っている。労働がつらいつらいとみんな言うのに、その原因を各々が自分に求めて、時に社会不適合者を自称する。みんな辛いのなら仕組みがおかしいと思う方が妥当である。社労士とは、実務上は書類をカタカタするだけであっても、社会的な存在としてはきっとそういう類のことを主張する職業だと思った。しかし、年収が安いという情報がある(高いという情報もある)。また、需要や将来性がないとかいう情報も見つかる。結局なんだかよくわからず、将来は不安である。

宇宙で一番ふんわりした野球入門(守備編)

毎年この時期はなんとなく甲子園を見てしまう。チャンネルをコロコロ変えると「第105回全国高等学校選手権大会 第11日」みたいな淡白な番組名がふと見えて、その訴求感のなさだけで好感を抱ける。視点の動きが少ないこともよい点であり、野球中継では、放送時間のほとんどをピッチャーの背・バッターの半身・キャッチャー・審判を映す、バックスクリーンに設置されたカメラからの映像が占める。これだけ構図の変化が少ないテレビ番組は他にないと言っていいと思う。きわめて目に優しいコンテンツである。 

僕は小学生のとき野球をやっていたのだが、なにしろ小学生の頃の話なので覚えていることは少ない。最も強く印象に残っている記憶は区大会かなにかの決勝でエラーをしたものである。

ちなみにエラーというのは、守備側によるミスを指す。さらに野球を知らない人のために言うと、野球というスポーツのルールは、基本的に守備においてミスが生じないことを前提としている。なぜこう明言できるのかというと、たとえばサッカーの試合がその内容にかかわらず時間の経過によって進行・終了するのに対して、野球は守備側が、守備を成功させる(アウトカウントを増やす)ことによって試合が進行するからである。裏を返せば、原則的には守備が成功しない限り野球の試合は終了しない。

それならば、野球における守備とは、失敗したら試合の進行に支障が出るのだから、ごく簡単なのだろうかと思われるかもしれないが、これが非常に難しいのである。最も単純なアウトの取り方であるフライについて考えてみよう。そのためにはまず、フライについて説明しなければならない。野球では、バッターが打った球を、それが地面に触れる前に守備側がグローブに収めればアウトカウントを一つ増やすことができる。したがって、バッターが球を高く打ち上げた場合、これは守備側にとって非常なチャンスであり、このような高い軌道の打球をフライと呼ぶ。実際、一般的に球が打ち上げられた時点でピッチャーはそのバッターを「打ち取った」と表現され、そのバッターが実質的にはほとんどアウトであることを含意している。

しかし、本当にフライを捕ることはそんなに簡単なのだろうか? グラウンドにあなたが立っていると想像してみよう。あなたは内野手である。そして、だいたい30mくらい先にバッターがいて、今、球を打ち上げたとする。あなたはその球が地面に落下する前に球を捕らなければならない。すなわち、球の落下点に、ボールが落下するより前に到着しなければならない。

さて、現在のところ、白い球は青空を背景に空中を漂っている。今あなたに求められているのは、バッターの立っている位置からあの空高くまで移動した球の部分的な軌道から、完全な軌道を予想し、最終的な落下点を予想することである。簡単な二次関数の問題だ、そう思われるかもしれない。確かに、バッターと球、そして内野手を真横から見られる位置にいればボールがどこに落下するかは簡単にわかる。しかし今、あなたは内野手なのであり、そこに大きな困難がある。白い球がどんな角度で打ち上がったのかあなたは知ることができない。青空のもと、遠近感のものさしになるものはなく、唯一の手がかりは、白い球がどれくらい大きく見えるかということである。大きければ近くにあり、小さければ遠くにある。それによって自分と球との大まかな距離を目算し、仰角の情報を加味すれば、だいたいの軌道を予想できるかもしれない。

以上に示したようなプロセスによるフライの捕球という芸当を達成できなければ、敗北する。いやそればかりか、そもそも試合が進行しないのが野球というスポーツである。小学生の僕にはこれがあまりできなかった。

無論、野球が特別難しいと言いたいのではない。僕はサッカーもできない。テニスはちょっと出来る。テニスは簡単である。いや、スポーツは全て難しいのだ。

 

小説を書いたり

「おにんぽこ」を含めて今年に入ってから3つくらい小説を書いたのだが、どれも3000字に満たないごく短いものなので、小説と呼ぶのも憚られる。掌編小説という用語、ジャンルも存在しないではないのだが、その用語は、その短さの小説でしか表現し得ないものがあるという考えのもと、作者が意図してその短さを選択した作品のためにあるのであって、僕のような、単に書く体力がないからこの辺で終わらせよう、とか、この部分は難しそうだから膨らませるのはよそう、とか、要するに単純な技術の不足が短さとして表れている作品に対する用語ではないことは自覚している。

3つの小説のうち2つは、大学の講義の課題として書いたものだった。というのも、第二クォーターで文学という講義を履修したのだが、この講義の目的が文学の鑑賞や文学史の把握ではなく、小説を書くことだったからである。だからその形式も自ずから特殊なものになった。まず最初に教授に指名された学生が登壇すると、その学生が書いた小説が配布され、それを各自で読み、班で感想などが交換されたのち、班の代表者がその作品の作者に感想を伝えたり、質問したりした。僕にしては珍しく、終わってしまうのが惜しいほど楽しい講義だった。というか、もう僕は科学にあまり興味がなくなってしまっていて、別の講義が退屈すぎるのである。(くわえて言うと、科学の中身にはあまり興味がないが、科学と社会の関係のようなことに関してはおおいに興味がある。このことについてはいつか別の記事で書くつもりだ。)

そういうわけで、この2,3ヶ月は自分なりに書くという行為に関してまじめに考えた期間だったし、この「書く」という、言語との新たな付き合い方は、僕の小説の読み方にも少なからぬ影響を及ぼした。先週あたりミラン・クンデラの『不滅』を読みはじめたのだが、語っていること自体は個別の人間の人生についてであるのにもかかわらず、その語りの表現の射程が世界全体に及んでいるかのような感覚(世界に存在する一つのテーマを表現しているのではなく、文字通り世界の全体に小説が言及しているかのような感覚)を覚えさせれられる、具体性と普遍性の奇妙な併存、とかいうそれっぽいことを思う一方で、こういう作品を今後自分が書けるだろうかという焦りみたいなものもついてくるようになった。おにんぽこなど言っている場合ではないのではないかとも思った。

このブログもかなり肩の力は抜いているにせよ、書くことの練習というふうに位置付けている。そろそろ始めて2ヶ月くらいになるかと思ったが、まだ1ヶ月と少しらしい。まだ練習を続けたい。

おにんぽこ

 コンビニで明日の朝ごはんの菓子パンを買って、ムワムワした夜の空気に汗をかきながら歩いていると、突如として足下のアスファルトが灰色に照らし出されたので、頭上を見やれば、銀色の円盤からまばゆい光が発されていて、照らされているのはどうやら俺であるとわかった。思わず立ち止まって、口はあんぐりと開いて、その給食の皿のような銀色の異常な沈黙を、寝違えた首の痛みにも構わずに見上げていたら、今度は足元からガサガサとビニールの擦れる音がして、驚いたことに、コンビニで買ったビニール袋が生命を享けたかのようにひとりでに振動している。とうとうそんな時代が来たかと思って、現代生物学の基礎がまた新たに塗り替えられる予感とともに、生命の誕生に際して人間が普遍的に(たとえそれがビニール袋であっても)抱く感動を味わっていると、ビニール袋の口から、これまた分娩の瞬間のように、ゆっくりとクリームパンが顔を出した。クリームパンがやすやすとビニール袋から脱け出し、空中に浮かび上がったのを見て、いや、見ている場合ではない、と気づいたときにはもう遅く、クリームパンは無音の円盤に吸い込まれていく。この時点で明日の朝ごはんの不在が決定し、この受け入れられぬ事実を受け入れなければならない悲しみ、生きるものならば(たとえそれがビニール袋であっても)免れ得ない類の悲しみをしみじみと感じていると、フワリと自分の身体が宙に浮いて、そこまでは覚えている。
 目が覚めると白い天井があった。その白い視界の右から、ぬっとシルバーの丸っこい物体が登場して、同時にどこからか日本語の音声が聞こえる。
「危害は加えません」
光沢のないマットな質感のシルバーはベンツのEクラスのようで、そのさらりとした手触りを是非確かめようと彼の顔に手を伸ばすと、ぎょっと飛び退かれてしまった。
「ですから、危害は加えません」
音声は明らかにどこか別の場所にあるスピーカーから再生されているが、これは彼が喋っているという理解でよいのだろうかと、何故かディズニーランドの新設のアトラクションに入ったときのような、世界観に気を使って自分の解釈を合わせに行くような思考を巡らせながら、彼の全身を見ると、頭頂部から足の指先までベンツのEクラスで統一されているのに、二つの眼球だけはおせち料理の黒豆のような、チープな光沢を放っているのが惜しい。起き上がってベッドから降りると、彼はさらに一歩後ずさりをしたのだが、自分の後方からも同じペタッという足音が聞こえて、振り返るとそこには彼と同じ外貌の、別の個体が二匹いた。
「我々の目的は攻撃ではなく地球人類の研究です。あなたのおにんぽこを見せてください」
右の壁には大きな鏡があって、そこに映し出された像はこの奇妙な状況を整理する助けになったが、おそらくその鏡の向こうには俺を監視している個体が何匹かいるのだろうと思うとなんとなく嫌な気持ちがした。こちらからは見えないのに、あちらからは見えるということに嫌な気持ちがした。なるべく早くクリームパンを返してもらってここから出たい気がしたので、それで初めて喋る気になった。
「ここから出たいのですが」
「出るために、あなたのおにんぽこを見せてください」
彼は何と言った? オニンポコと言ったのだろうか?
「すいません、何を見せればいいって言いました?」
すると、少しの沈黙ののち、こう返答された。
「おにんぽこを見せてください。我々は、日本語でおにんぽこのことを正しくは何と言うか知りません。しかし、地球人類を研究するために、地球人類のおにんぽこを見る必要があります。あなたがここから出るために、あなたのおにんぽこを見せてください」
 たぶん男性器のことなのだろう。俺はそう思った。生殖は人間の生活環において分子的に最も複雑な過程であるから、そこを研究したいのに、あのUFOからいくら日本を見渡しても男性器を露出している人が見つからなかったので、仕方なく俺が拉致されたということだろうか。しかし、オニンポコが男性器だとすると、いくつかの疑問が浮上する。なぜヌーディストビーチや、裸族が生活する地域へ行かなかったのだろう? その存在を知らなかったか、あるいは、遠い星から思いがけず日本に到着してしまい、各国の領空を横断して地球上を移動するリスクを冒したくなかったのだろうか? また、なぜ俺が寝ている間にさっさとズボンを脱がせて俺のオニンポコを観察しなかったのだろう? それに、なぜ男性器という言葉を知らないのか?
 疑問は尽きなかったし、どうして初対面の宇宙人にオニンポコを見せなければならないのかという不満もあったが、明日は渋谷のドトールで九時からバイトをしなければいけないので、とにかく早くここを出て、家に帰って寝なければならなかった。俺はとうとう腹を決めると、ベルトのバックルに手をかけた。
「見せたらここから出してくれますか」
「はい」
「クリームパンは返してくれますか」
「はい」
 二つの事項の確認がとれたので、俺はベルトを外し、ボタンを外し、チャックを開けて、ジーンズとパンツを同時に下ろした。
 しばらくの沈黙があったのち、部屋に日本語の音声が響いた。
「おにんぽこを見せてください。ちんこは見せないでください」

夏休みですが

一年のうちでもっとも辛い月は6月だと思っている。なぜかというと、身も蓋もない理由なのだが、僕が中学に行かなくなったのも、去年大学に行かなくなり始めたのも6月だからである。逆に、気持ちが楽なのは休みの期間を除けば年明けの2月あたりで、人はやはりゴールが見えるとやる気になる。それから春休みが過ぎて、よく考えるとあの3月はゴールではなくスタートだったのではないかと思い始め、次の3月までの果てしない道のりに立ち尽くすのが5,6月である。

一般に夏休み明けの辛さということが言われるが、9月の通い始めが辛かった記憶は僕にはそこまでない。それは結局のところ、夏休みが(主に宿題によって)そこまで楽しくなかったことを意味するのだと思う。僕は計画してその通りに行動することが得意ではなかったし、人一倍の後回し癖もあったので、夏休みの終盤に地獄のように宿題を詰め込む典型的なタイプだった。だから、実はこの宿題からの解放が登校の再開という苦痛を中和していたのかもしれない。今になってそう考えると、僕はあれほど憎んだ夏休みの宿題に親の厳しさのようなありがたみを覚えないでもない。

ただ、現役の小中学生にとって夏休みの宿題はやはり悩みの種でしかない。そして、それは一定の需要につながるようだ。本屋では7月下旬のある日を境に平日の昼間から子供の姿が見られるようになり、ちょうどそのタイミングで入り口付近に課題図書のコーナーが展開される。課題図書というのは、全国学図書館協議会という団体が読書感想文全国コンクールを開催するにあたって毎年選定する本のリストなのだが、選定の対象は前年に刊行された本に限られるから、いわゆる古典・名作は対象外である。なんとなく子供の宿題という巨大な需要にあやかって新刊を売ろうという大人のエゴが透ける制約であるし、課題図書というリストの存在は、学生が書店や図書館をうろついて本を選ぶという機会を奪うものであると思う。選定された本を読んで感動して読書が好きになりましたという人がいるか知らないのでなんとも言えないのだが。

課題図書のついでに、自由研究キットなるものも売り場に置かれ始める。これはその名から察せられる通り、説明書の通りに操作を行えば自由研究をやったことになるという謎めいた商品である。当然のごとく、自由研究キットの存在は主体的な学習の機会を奪うとか、これは自由でも研究でもないとか、そうした批判がインターネットにはたくさんある。

断っておきたいのが、僕が課題図書と自由研究キットが良くないと思うのは、機会を奪うというその一点においてであって、課題図書がなければ学生がいい本に出会えるとか、自由研究キットがなければ学生は探究的な精神を養うことができると思っているわけではない。きっと課題図書の本もいい本なのだろう。しかし、もし課題図書のリストがなければ、一部の学生を途方に暮れさせることができるということだけは確かである。そうして途方に暮れた学生は、親の本棚を漁り、図書館を彷徨い、書店を彷徨いするかもしれない。僕の言う機会とはこの困る機会である。

🐥→ X

人には人の青春がある。中学から高校にかけて、僕が最も時間を費やしたのはTwitterだった。高校に入るといくらかマシになったが、中学生の僕は学校で大して喜んだり怒ったりしない割に、Twitterで反応されると喜んだし、内容の薄いツイートが支持を集めているとイライラしたので、そういう意味では僕の精神は現実よりもTwitterに濃く存在していた。

当時のことを考えると、これは僕の抱いた印象にすぎないのだが、今ほどには誹謗中傷が問題になっていなかったような気がする。それよりも僕が中学生なりに問題視していたのは、リツイートという仕組みによって承認欲求が手軽に満たされることで利用者がTwitterに依存し、さらなる承認を求めて過激なツイートが生み出されるという悪循環だった。いや、こんな風にはっきりとした問題意識は持っていなかったと思うが、ともかく承認欲求という概念は何か重要な位置を占めていたと思う。インターネット上で誹謗中傷が横行する場と言って想像されるのは主に2chの方だった。

それから、当時はTwitterを利用する人たちの間で特別に共有される、文化と言っては大げさすぎるような、共通認識みたいなものがあったと思う。具体的にいえば、ある種の冗談を真面目に受け取った人がいた場合、それは単なるコミュニケーションの行き違いと見なされず、冗談を真面目に受け取った側のインターネット的な "教養" が不足しているとして受け手が誹りを受けることが多かった。要するに、Twitterを利用するならば当然持っているべき共通認識というものが存在し、その共通認識があれば文脈や言葉遣いからその冗談を見抜くことができるのに、それを見抜けないのは受け手の怠慢である、という論理だった。「ネタにマジレスするな」とか「半年ROMれ」とかはそういう感覚が生んだ言い方である。この点で、Twitterの利用者同士のコミュニケーションには排他的な性格があったと思う。

以上のことは結局のところ僕の定点観測に基づく印象にすぎないし、もうTwitterを一切やっていないので現在と比べてどうだと言うこともできないが、居場所としてのTwitterが中学生の僕を良かれ悪かれ現実から匿っていたことは事実なので、運営会社が変わってロゴがXに変わるとかしても、社会からこぼれた人を形だけでも繋ぎ止める役割を担うものであってほしいと思う。その一方で、僕は短文投稿というサービスの形式には懐疑的で、あらゆる人が自由になんでも書き込める場所で誹謗中傷が蔓延するのは防ぎようがないのではないかとも思う。インターネットなんか使わなくても寂しくない世の中になればよいのだが。