エアコンが壊れた

先週、リビングのエアコンが壊れた。突然という訳ではなく、数年前からときどき水が漏れるなどの不調をきたしていた。そもそも2011年製のものであったから、リモコンにエラーの表示が出た時は家族一同驚きも少なく、労いの気持ちすらあり、誰かが「そろそろ壊れると思っていた」などという典型的な後知恵バイアス的セリフを口に出しそうな空気だった。

家電の故障に対してほんのちょっぴり死に近い感覚を抱くのは、それらと我々の生活との距離が限りなく近いからだろうか。12年にわたってリビング、つまり食卓の空気の調和を担当してきたこの分厚い東芝のエアコンが電源プラグを抜かれ、残暑の季節に似合わぬ沈黙を壁の天井近くで堂々と晒す様はまるで弁慶のようではないか。

あえてエアコンの立場に立つなら、空調という仕事は家電のする仕事のうちもっとも目的が不可解なものであったろうと思う。たとえば、熱く、もっと熱く、これは電子レンジの仕事である。なんだかよくわからないが、私は熱するためにこの世に生まれたようだ、と電子レンジは思うことができるだろう。一方でテレビはこう思っている。電波を受信して、映像を流すために私は生まれたようだ。

しかし、エアコンはその12年の生涯で自分の使命を理解することができただろうか? 冷たい風を送れ、送れと言われて、しばらくすると、暖かい風を送れ、送れと言われる。冷房機能と暖房機能は、エアコンの仕組みについての図解を見ればわかるが、文字通り真逆のプロセスを経ている。時季によって全く逆のことを命令される家電をエアコンの他に知らない。山の上に石を運べ。運んでしばらくしたら、その石を山のふもとに運べ。これを繰り返せ。エアコンは、人間によるそういう不可解な命令に忍従する唯一の家電であるかもしれない。

その我慢強いエアコンも経年劣化には耐えられず、先日その役目を終えたのだが、家電の動物と異なる点は替えが利くところである。母と父は故障の数日後にヤマダ電機を訪ね、エアコンのカタログを2,3冊もらってきた。それから、何とかという三菱のエアコンの2023年モデル(毎年仕様が変わるのだろうか?)を選び、購入した。

それでヤマダ電機と提携しているらしい工事業者が我が家を訪れたのが昨日だった。室内機と室外機の寸法を測ったり状態を調べたりすると、工事費用を見積もって、15分ほどで去っていった。

次の日曜日に設置工事が行われると言ったから、そのときに故障したエアコンも撤去される。